フツーリーマンの雑記帳

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麒麟がくる 三好長慶

どうも、TASUKEです。

麒麟がくるの第5回「三好長慶襲撃計画」で、俳優の山路和弘さん演じる三好長慶(みよしながよし)が本格的に登場しました。

 

山路さんは「軍師官兵衛」で毛利家の外交僧・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を演じたほか、昨年の大河ドラマ「いだてん」にも出演しているベテランの売れっ子俳優です。

 

 

三好長慶(1522~1564)ってだれ?

そもそも三好長慶ってだれ?って人も多いかと思いますので、TASUKE流に簡単に説明いたします。

三好長慶は、室町幕府の管領(幕府のナンバー2)細川晴元の重臣です。1522(大永2)年生まれですから、大永元年生まれの武田信玄と同世代にあたります。三好家は信濃源氏である小笠原家の分家で阿波(徳島県)の三好郡に土着したことから三好氏を称しました。

阿波は管領・細川家の庶流である阿波細川家が守護を務めており、三好家はその被官(現地の重役みたいなもの)として頭角を現しました。守護といってもほとんど京都にいるので、現地の経営は家臣に任せがちなのです。

 

主君・細川晴元との確執

さて、この長慶は父の死によりわずか10歳で家督を継ぎます。しばらくは年少のため、目立った活動はできませんでしたが、次第に頭角を現していくことになります。ときには主君・細川晴元と争いながら、細川家中での勢力を拡大していきます。

さきほど、細川晴元の重臣と記載しましたが、時は下克上の時代。安土桃山時代から江戸時代にかけて確立していく忠君の精神のようなメンタリティーはまだこの時代にはありません。

また、長慶の父・元長は主君である晴元の策謀により追い詰められ命を落としていいることからも因縁の間柄と言えます。

信長以前の天下人

当初から関係は良好とは言えなかった長慶と晴元ですが、天文18(1549)年についに晴元に反旗を翻します。長慶は摂津国・江口(現在の大阪市東淀川区)にて晴元側の三好政長を破り、敗れた晴元は将軍・足利義晴らとともに近江に逃走しました。ここに三好長慶を中心とした暫定政権が成立し、日本の中心部である畿内を中心とした地域を掌握する有力大名として名乗りをあげることになります。後に上杉謙信や武田信玄、そして織田信長が目指した「上洛」を既に果たしていたのです。

地方の有力大名との違い

畿内を抑えたと言っても、その支配構造が盤石だったわけではありません。地域の有力大名はその国の守護大名や守護代、有力国人の出身で地域をしっかりと掌握しながら成長しています。一方、長慶の三好家は確かに阿波を地盤とした豪族ではありますが、管領・細川家の重臣となることで中央政局に進出し、一足飛びに畿内中心部を「抑えた」形になりました。

しかし「抑えた」といっても、一番の有力者になっただけであって、畿内は古くから文化経済の発達した地域であるだけに有力な豪族、寺社勢力などが存在し、細分化された荘園など複雑な利権が絡み合っていました。

それらの勢力が彗星の如く現れた長慶の支配に服したとは到底思えません。事実、主君である細川晴元との関係はその後も安定せず、細川方を担ぐ勢力との争いは彼の生涯を通して続くことになります。

三好政権が抱える矛盾

長慶の生涯では、主家である細川家との対立が長年続きました。それでは、なぜ細川晴元を殺害したり、細川家を根絶やしにしなかったのか?彼は強大な権力と軍事力を手にしていたはずです。

そこには、争いながらも細川家を温存させなくてはならない理由があったのです。三好長慶は室町幕府のナンバー2である管領・細川家内で台頭することで権勢を手に入れてきました。したがって、三好政権の正統性は「将軍を補佐する管領の代理」的な立場があるからこそ保たれていたのです。

逆に細川晴元からすれば、長慶を葬ったところで自らの立場が揺らぐことはありません。むしろ排除したくて仕方なかったはずです。だから、暗殺未遂事件が起こったものと思われます。

まとめ

頂点に君臨するには、実力とともにある種の権威が必要になってきます。長慶にとっては、それが細川家を牛耳り傀儡の管領の元で政治を行うことでした。ここに三好政権の限界があるとも言えます。長慶の全盛期はしばらく続きますが、彼の死(永禄7年・1564年)の後、三好政権は急速に崩壊することになるのです。

余談ですが、後に織田信長は足利義昭から副将軍や管領の役職を打診されるのですが、即座に断っています。信長は当初から権威に頼らず実力で勢力を拡大してきたこともあり、権威としての室町幕府に利用価値を見出していなかったのです。

一方で、秀吉はその出自の低さから伝統的な権威にこだわり、摂関家の近衛家の猶子となることで、関白・太政大臣となったのです。

 

三好長慶については、TASUKEも知らないことが多かったので、かなりWikipediaを参照させていただきました。興味を持たれた方はご一読ください。

ja.wikipedia.org

最後までご覧いただきありがとうございました。