豊臣秀吉は英雄か?(唐入り構想に関連して)
こんばんは、TASUKEです。
さて、今夜は誰もが知っている日本史上最大の出世人・豊臣秀吉の話題を。
豊臣秀吉についてはたくさんの書籍がありますし、TASUKEは専門の歴史学者ではないので、彼の生涯や全体的な事績については割愛します。(というか書けません・・・。)
今回お伝えしたいテーマは豊臣秀吉は英雄か?というものです。織田信長の後を受けて戦国乱世を終わらせた天下人・豊臣秀吉は日本史上の英雄であることに異論はないかと思います。しかし、秀吉については晩年に行った唐入り(朝鮮出兵)によって、その評価が分かれることもあります。事実、学生向けの教科書や参考書のほとんどが唐入り(朝鮮出兵)については否定的に記載しています。(失敗に終わったので、計画の出来として批判されるのはある意味当然ではありますが。)
世界史における英雄
日本史における英雄といえば秀吉のほかに、平安時代なら源義経、戦国時代なら織田信長に徳川家康、幕末なら坂本龍馬、西郷隆盛、高杉晋作などが思い浮かびます。
一方、世界に目を向けると英雄と言えば、どんな人物が思い浮かぶでしょうか?
アレクサンダー大王(マケドニア王、インドまで遠征)、ユリウス・カエサル(共和制ローマの独裁官)、リチャード獅子心王(第三回十字軍で活躍したイギリス王)、チンギスハーン(モンゴル帝国の創始者)、ナポレオン(フランス皇帝)、毛沢東(中華人民共和国初代国家主席)などなど。いずれもそうそうたるメンバーであり、各国の誇りでもありシンボルです。
他にもたくさん英雄が存在しますが、とりあえず思いつく人物を列記してみました。実はこれらの英雄に必ず共通する事績があります。
英雄の条件
それは、軍事力を用いて『国外への侵攻を成功させた』ことです。ユリウス・カエサルならばガリア(現・フランス)やエジプトの平定、チンギス・ハーンなら東アジアからヨーロッパにまたがる空前の領域を征服し、モンゴル帝国の礎を築いています。ナポレオンなら言うまでもなくヨーロッパの制覇ですね。毛沢東は抗日戦争と国共内戦の勝者であって対外侵攻はないのでは?と言われそうですが、チベット侵攻やウイグルへの進駐を行い(現地で指揮をとったわけではありませんが)、中華人民共和国の版図に組み入れています。
この英雄の条件を当てはめるとすれば、豊臣秀吉は英雄とは言えません。なぜならば、国外進出である唐入り(朝鮮出兵)に失敗しているからです。ここで注意したいのは、唐入り(朝鮮出兵)を実施して朝鮮人民や日本の将兵を苦しめたから英雄失格なのではなく、失敗したから、であることです。
日本人が不思議なのは「秀吉は朝鮮出兵したから」=悪人であり、英雄ではない、と考えている人が多数いることです。では、そのような意見の人が「チンギス・ハーンは英雄か?」と問われてもまさか「他民族を苦しめたから英雄ではない」とは言わないでしょう。ここにおかしなダブルスタンダードがあります。
秀吉の唐入り(朝鮮出兵)の必然性
恐らく、そのような考え方(秀吉=悪≠英雄)は、多分に贖罪史観によるところも大ですが、そもそも、朝鮮を経由して中国(当時は明)に攻め入ろうという軍事行動が荒唐無稽であり、老いたことでもうろくした秀吉の肥大した自尊心が引き起こしたもの、と捉えられているためでしょう。
しかし、ここで改めて世界史を参考に考えてみましょう。チンギス・ハーンは長らく続いたモンゴル族同士の戦いの勝者となり、国内統一を成し遂げた後どうしたでしょうか?また、ナポレオンはフランス革命勃発以来10年以上にわたって続いた内戦の勝者となった後は、対外侵略に乗り出しています。(攻め込まれたはずのロシアにもナポレオンマニアがいるくらいです)
なぜ、英雄たちは他国を侵略するのか?この問題はリーダーの立場になってみると、よく理解できます。
群雄割拠していた国内をやっとの思いで統一したとき、内戦で活躍した武力はどうなるのでしょうか?平和になるので治安維持に必要な人員以外は不要となり、軍人は失業してしまいます。大量の失業軍人が発生すれば、社会不安が増大し国民の間に不満が充満します。また、これまでに従ってきた部下たちに対しても新たに獲得する土地がなければ与える恩賞もありません。場合によっては、裏切りにあってしまうことも考えられるわけです。
ただし、だからと言って侵略行為が人道的に善い行いであるとは言えず、正当化はできません。秀吉の朝鮮出兵が朝鮮の人々を苦しめたことは確かです。
しかしながら、歴史的出来事を現代の価値尺度のみで判断すると歴史を適切に捉えることはできません。当時は「人道的」という日本語すらもなかったのですから。国内を平定すれば即、対外侵略に向かうのがスタンダードな時代であり、秀吉が特別だったのではありません。
いつから構想が練られたのか?
秀吉は天正18(1590)年に関東の雄・北条氏を屈服させて天下統一を成し遂げます。これに先立って惣無事令(私戦禁止令)を出しており、日本国内における大名間の戦争を禁止しています。
天下統一を成し遂げたこの天正18年の時点で国内における戦争はなくなりましたが、豊臣子飼いの大名・武将をはじめ何十万もの戦闘のプロが日本中に存在していたことになります。この時代の雰囲気というべきか、戦乱の中で頭角を現して立身出世を遂げようという風潮が急に収まるわけがありません。秀吉自身もそのなかの一人だったのです。唐入り構想は豊臣政権のエゴだと勘違いしている人も多いですが、政権中枢のみならず諸大名や庶民についても当初から構想に反対ではなかったのです。
ということで、豊臣政権は必然的に対外進出に向けて動き出すことになります。なお、秀吉の唐入り構想は天下統一後に練られたわけではなく、既に天正15(1587)年には李氏朝鮮国王に服属要求を行っていることから、国内統一事業と並行して計画は練られていたはずです。
また、信長存命中に大陸進出の夢を語り合ったとも言われていますので、構想自体は相当前からあったのかもしれません。
唐入り計画について、当時の日本の軍事力(兵力)で広大な中国大陸を支配できるはずがない、という秀吉批判もありますが、モンゴル族(元)や女真族(清)は圧倒的少数で圧倒的多数の漢民族を破り、中国本土を支配しましたので、その批判は必ずしも的を得ていません。ただし、彼らは中国を支配したようでいて、文化的には漢民族の文化を吸収することで逆に取り込まれていくことになります。現に女真族の故郷である中国東北部(満州)は中華人民共和国の一部となり、満州族はほとんど漢民族と同化してしまいました。
まとめ
豊臣秀吉の唐入り構想は結果的に失敗に終わりました。ゆえに世界史基準でいえば、「英雄」とは言えないのかもしれません。ですが、やはり日本人にとっては、史上類まれな立身出世を遂げた人物であり、戦国時代に終止符を打った人物として英雄視されるのも当然です。
その証拠とでもいうべきか、豊臣秀吉は神となって祀られているのをご存じでしょうか?大阪城・京都東山・滋賀長浜など秀吉ゆかりの地に豊国神社(「ほうこくじんじゃ」または「とよくにじんじゃ」)として、鎮座しています。秀吉の出世にあやかって一度参拝するのもいいですね!
以上、秀吉に関する考察でした。
最後までご覧いただき、ありがとうございました!