【読了】皇帝フリードリッヒ2世の生涯
こんにちは、TASUKEです。
みなさん、家で過ごす時間が長くなっているかと思いますが、
じっくり読書はいかがでしょうか?
今のような時間のあるタイミングで「(TASUKE的)読みたい本ランキング」、のような企画をまとめたいのですが、まずは、2月にアップした本の最終レポートが未了でしたのでお付き合いいただければ幸いです。
前回アップ時は上巻をほぼ読み終えたところまでの感想でした。
もし、興味があるという奇特な方がいらっしゃれば、下記リンクをご覧ください。
さて、第6回十字軍から帰還したフリードリッヒ2世。
帰国後は彼の思い描いていた国づくりが進んでいく、と前回の最後に記しましたが、
それは半分正解で半分間違いでした。
中央集権化に向けて
1229年にパレスチナから帰国した後、1231年にはメルフィ法典を制定し、シチリア王国(南イタリアとシチリア島)における中央集権化を制度的に担保します。
意外にも思われますが、中世後期のヨーロッパは後の絶対王政(中央集権化)が確立する前であり、君主(国王・皇帝)の元に権力を集中させ、有力な封建諸侯を中央政府の官僚として統治に参加させる体制を、彼が初めてヨーロッパで実現させたようです。
一方、彼のもう一つの領国ともいえるドイツについては、無理な中央集権化は進めず、有力な封建諸侯を上手く制御しながら、従来の枠組みを存続させながらの統治を続けます。ドイツは伝統的に諸侯の力が強く、この後も地方分権の状態が長く続きます。
現在でも「ドイツ連邦共和国」という国名ですから、歴史的な性質とも言えるのでしょうね。
なお、日本において官僚制に基づく強力な中央集権体制が実現するのは、明治維新を待たねばなりませんから、いかに先進的な取り組みだったかが分かります。
(7~8世紀の律令制度は一応とはいえ中央集権体制ですが・・・)
ローマ教皇との対立
さて、中央集権化に向けての最大の壁は王国内の諸侯ではなく、ローマ教皇でした。
現在の教皇からは想像もつきませんが、中世当時のローマ教皇はイタリア中部に「聖ペテロの遺産」と呼ばれる広大な所領を持つ諸侯でもありました。
また、当時は4世紀前半の古代ローマ帝国皇帝・コンスタンティヌス帝が当時のローマ教皇に西ヨーロッパ全土を寄進したとされる「コンスタンティヌスの寄進状」の存在が信じられていました。実際の統治は王や皇帝が行うものの、その任命権はローマ教皇にあり、西ヨーロッパ全土の真の主はローマ教皇というわけです。
なお、この寄進状はルネサンス時代に入った15世紀に偽書であることが問題提起され、
最終的には18世紀に偽書であることが確定しました。キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝もさすがにそこまではしなかったわけです。
そのローマ教皇にとって、おひざ元の南イタリアで中央集権化を進めるフリードリッヒ2世の行動は、ローマ教皇の権威および権力への挑戦と映ったのでした。
以降、フリードリッヒ2世の生涯にわたって、ローマ教皇との対立が続くことになります。
中世は現代と比較にならないほど、宗教の権威が強い世界です。神の代理人とされるローマ教皇と対立することが、いかに困難をともなうことか現代人からは想像がつきにくいですが、
フリードリッヒ2世はローマ教皇からの破門処置を何度も受けることで、測り知れない不利益を被っています。
ロンバルディア同盟との戦い
これまでも触れてきましたが、フリードリッヒ2世の領国はシチリア島を含む南イタリアと、ドイツに分かれており、その間には教皇領を中心とした中部イタリアと、ミラノ、ジェノヴァ、ヴェネツィアなどの諸都市が点在する北部イタリアが挟まれています。
教皇領はもちろん敵方ですが、ミラノを中心とした北西部イタリアは教皇派(グエルフィ)の諸都市が多かったので、フリードリッヒ2世の祖父の代から、皇帝に従わないことが多かったのです。
教皇からの働きかけもあり、これらの諸都市は同盟を結成してフリードリッヒの前に立ちはだかりました。この同盟は北西部イタリアの地方名からロンバルディア同盟と呼ばれています。
(北東部で強力な海軍を持つヴェネツィア共和国はロンバルディア同盟とは共同歩調はとらず、中立の立場で通し続けました。)
終始、皇帝側は有利に戦いを進めるものの、ついにはロンバルディア同盟を完全に屈服させることはできないのでした。
「時代の先駆者」の最後
1250年秋、生涯を通じた趣味である鷹狩りの最中に体調を崩し、近くの街に運ばれて懸命の治療が施されますが、12月にはついに帰らぬ人となります。56歳の死でした。
前年の1249年には長子エンツォが敵方に捕らえられ、幽閉されるなど法皇派との戦いは一進一退が続いていましたが、次第に皇帝派に有利な形成になりつつありました。
しかし、皇帝の死によって法王派の巻き返しが始まり、やがて彼の息子たちは命を落としていき、彼が残したシチリア王国もフランス系の王朝にとって変わられることになります。
結局、彼のような強力なリーダーシップと政治力をもってしても、時代の殻を完全に破ることはできなかったのです。
しかし、彼が目指した政治体制は、彼が君臨した間にしろ、中世のシチリア王国で実現し、ヨーロッパ主要国では絶対王政の形で結実します。そして、近代国家への道につながっていくことになります。
また、彼が挑戦した教会権力は、ルネサンス時代に宗教から距離を置いた科学・芸術が花開くことで相対的にしろ影響力が低下していき、近代への扉が開かれることになるのです。
そのルネサンス時代の始まりに先駆けること約150年。フリードリッヒ2世の宮廷にはイスラム世界出身の学者もいて、かつて古代ギリシャで発展した自然科学や哲学、文学などがアラビア語からラテン語やイタリア語に翻訳・出版されていたといいます。
(かつてのギリシア・ローマ時代の文化・芸術は中世ヨーロッパには伝わらず、むしろイスラム世界で受容されていました)
時代に先駆けた皇帝・フリードリッヒ2世は、確実に近世・近代への方向性を指し示してその人生を終えたのでした。
皇帝フリードリッヒ二世の生涯 上巻 (新潮文庫 し 12-102) 新品価格 |
皇帝フリードリッヒ二世の生涯 下巻 (新潮文庫 し 12-103) 新品価格 |